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2020年10月16日 ゲスト・PANTA(頭脳警察)~第1話


【放送内容】

音楽で感動した最初の記憶は小学3年生の時。米軍基地に勤務する父の親友・メリック軍曹がハーモニカで吹いてくれた名曲「ケンタッキーの我が家」。

「(音色が)身体に染み入って、もう『ぅわ~っ……』てね」(PANTA)

日本語によるロックの先駆的バンド・頭脳警察を率いるPANTAさんの音楽史は、スティーブン・フォスターで幕を開けた。その後に憧れたのは「不良のエルヴィス」。1950年生まれのPANTAさんがエルヴィス・プレスリーを聴き始めた頃は、エルヴィス自身は軍役を経てややキャラクターが変わっていた。しかしデビュー当時の「ハウンドドッグ」「ハートブレイク・ホテル」といった曲が、中学に上がる前のPANTAさんを強く惹きつけていた。

殆どのゲストが通過点として名を上げる《ザ・ビートルズ》。彼らが現れた1964年にはPANTAさんも14歳だったが、

「その時はまだまだ、『いや、エルヴィスだよ』って言ってたんだけどね。ただ「ツイスト・アンド・シャウト」「ロール・オーバー・ベートーヴェン」を聴いて、(ビートルズに)ヤられてしまって」(PANTA)

その後ザ・ローリング・ストーンズやジ・アニマルズといったR&B色の強いバンド、また日本人では尾藤イサオなどを好んで聴きながら、PANTAさんの十代はロック一色に染まっていった。



18歳、アマチュアバンド《ピーナッツ・バター》を組み活動していたPANTAさんのもとへ、ホリプロのオーディションの話が舞い込む。ドラム担当のメンバーの兄がホリプロでマネージャー職にあり、「とにかくお前らオーディションを受けろ」と言い、手筈をすすめて行った。

当時赤坂にあったホリプロの奥の会議室らしき部屋に通され、リードヴォーカル兼ベース担当のPANTAさん以下《ピーナッツ・バター》の面々は、スペンサー・デイビス・グループの「キープ・オン・ランニング」を演奏し始める。

「ひとりくらいが(審査に)来てくれるのかなぁと思っていたら、どんどん人が集まって来て、2~30人くらいが観てくれたのかな。終わってから『ベースのキミ。最初から音出てなかったんだけど』。ベースのシールドが抜けてるのに、あがっちゃってて、一所懸命になってて(笑)」(PANTA)



ともあれ、《ピーナッツ・バター》はオーディションに合格。当時はGS全盛期。ホリプロもオックス、そしてモップスを擁していた。

「モップスが好きだったんですよ。モップスがいるからホリプロだったらOKだった。もう大好きで」(PANTA)

数多くのGSの中で少し傾向の違うゴールデン・カップスやモップス。PANTAさんもモップスが目指すところだったが、ホリプロとしてはオックス路線を歩ませたかったらしいとPANTAさんは述懐する。

その後ホリプロ内で元ザ・ヴァン・ドッグスのキーボード・千葉正健らとバンドを組むが短期間で解散。PANTAさんはホリプロを離れ、1969年12月に《頭脳警察》を結成する。レコードデビューは1972年だが、それに先立ち1970年5月の<第41回・日劇ウエスタン・カーニバル>に、頭脳警察は<ニューロック・グループ>の1つとして、ザ・ゴールデン・カップス、フラワー・トラベリン・バンド、ハプニングス・4+1、ザ・エム他と日替わりで出演する。


この時のPANTAさんの<例の話>については一応番組でお伺いしたのだが、オンエアにあたり信号音処理を数か所に渡り要する結果となり、同時にあまりにも有名なエピソードであるので(ご本人も別のところで「頭脳警察・日劇で検索すればいくらでも出てくる」と記している)、当アーカイブでもスペースを多く割くことは控える。

当番組ならではの「あまり知られていない話」としては、

*ワイルドワンズの楽屋に出演者が集まり歓談中、PANTAさんが「どうやったらステージを盛り上げられるかなぁ」という呟きに応えた加瀬邦彦氏の提案だった。前年のジム・モリソン(ドアーズ)のパフォーマンスに着想を得たのかどうかは、氏が世を去った今、確かめようもないが……。

*頭脳警察の出番はテンプターズの後、小学生にも人気のフォーリーブスの前だった。

*直前に出演者には通達が入り、同時にスタッフに対しての箝口令が布かれた。発案者の加瀬邦彦氏は、ステージの内外を細かく観察していた。

*本番直前のお手洗い、居合わせた萩原健一氏が「やるの、PANTA?」と訊く。「やるよ、だってもう引くに引けないじゃん……」

*かくして「言い訳なんか要らねぇよ」を歌い終え舞台袖に戻ってきたPANTAさんを出演者は大喜びで迎える。最初に「やったぁーっ」と叫びながら抱き着いて来たのはフラワー・トラベリン・バンドの上月ジュンだった。

「だからね、快挙だとかじゃなくて、男の子の<いたずら>なんですよ、ただの。いたずらが成功した…みたいなね」(PANTA)

「それでPANTAさん、これ(指さしポーズ)から完全に離脱できましたよね(笑)」(東郷昌和)


【エピソード】

「僕、気になっていたんだけど《PANTA》って名前はどこから来たの?」(東郷昌和)

それはご本人17~18歳の頃に遡る。60年代の終わりかけ、東京の若者たち(PANTAさんの場合は新宿界隈で遊んでいた少年たちだった)の間では横文字の名前を名乗ることが流行っていた。「ゼロ」だとか「メフィスト」だとか、「ジュン」だけでも30人はいたらしい。その中でいつの間にか、この方に付いていたあだ名《PANTA》が、そのままステージネームになった。

「そんな中で、30歳くらいになった時に『もうPANTAなんて名前嫌だ!普通の名前がいい!』そして普通の、何かかっこいい名前を付けようと思って」(PANTA)

ところが、時を同じくしてバイクをこよなく愛するPANTAさんの前に、イタリアの名門バイクメーカー・ドゥカティ(Ducati)の逸品が現れる。その名も〈パンタ〉。

「うっわ~、そうか。で、それをレコードジャケットにも載せてしまったからもう名前変えられない……」(PANTA)


ホリプロのオーディション合格後、2年も経たずに同事務所を去ったPANTAさんだったが、「憧れのモップス」とはその後ツアーを共にしている。《アンドレ・カンドレ》が《井上陽水》と改名してデビューする、その東北ツアーにモップスと共につき合って欲しいというオファーが、当のホリプロから頭脳警察のもとに入ったのだ。どうやら担当者は、頭脳警察がホリプロを辞めたヒトのバンドだとは気づいていなかったらしい。

「寝台車から何から、(鈴木)ヒロミツとずーっと一緒で。パンツ一丁で走り回ったりねぇ、もう……。いや、ヒロミツ…さんがですよ。そういうセンパイでしたから(笑)」(PANTA)


【使用楽曲】

♪キープ・オン・ランニング(スペンサー・デイビス・グループ)

♪朝まで待てない(モップス/東芝バージョン)










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