【放送内容】
*フローラル時代よりキーボード奏者として活躍するヒロさんだが、もともとはギタリストだった。幼い頃にピアノを習った経験がある訳でもないが、ドアーズの「Light My Fire」のイントロのオルガンフレーズに魅かれ、それが弾きたくてキーボードに転向。
「人はそれを『天才』と呼ぶ」(柳田ヒロ)
*エイプリル・フール解散後、1970年代に入りヒロさんは様々なセッションバンドへの参加や「七才の老人天国」など自身のアルバム制作、そして様々なミュージシャンのバックバンドでも活躍。1971年のある日URCレコードのディレクターより依頼があり、「フォークの神様」岡林信康のバックバンドを任される。ロックミュージシャンであるヒロさんにとって未経験のフォーク、そしてバックバンドだったが、この仕事での自信がその後ジャンルの枠を超え、数多くのミュージシャンと関わり合いながら活躍する足掛かりとなった。
「この番組に来るゲストはね、こう言われたからそうしました、この枠にはまったからそうしました…という人はいない。みんな自由。だからみんな未だに、40年・50年演っている」「また、ヒロさんも含め現在も活躍しているこの時代のミュージシャンは、ライブの舞台に立ちづづけている。だから廃れない、新たな欲が出てくるのが生き残る条件として多分にある」(東郷昌和)
【新六文銭】
チト河内:ドラムス
柳田ヒロ:キーボード
よしだたくろう:ギター・ボーカル
小室等:ギター・ボーカル
後藤次利:ベース
(以上、画像左より)
*日比谷公園野外音楽堂のステージに岡林信康と共に立った時、客席最前列に座っていたのが吉田拓郎。この出会いがのちに《新六文銭》を始めとする吉田拓郎氏との活動につながっていく。
*「フォークの時代」と呼ばれていた70年代前半、実はフォークシンガーの多くはロック指向だった。洋楽を入り口に音楽の世界に入り、フォークブームの直後にキャロルやダウンタウンブギウギバンドがブレイクする。最初一人でギターを掻き鳴らしていたフォークシンガーが、売れるとバックバンドをつける。ロックミュージシャンの中にも、丁寧に淡々と弾きたい人がいる。そして多様な指向が交流し、新たな「場」が生まれる時代だった。
【エピソード】
*岡林信康のバックバンドの依頼が入った時、メンバー構成について「3人で」と指定された。曰く「岡林本人がギターを弾きたいから」。
「それで3人で行ったんですよ、ベース弾かせるのに近所にいた<高中>ってヤツ(番組注:彼は後年日本屈指のスーパーギタリストとなる)連れて」(柳田ヒロ)
顔を合わせると、岡林氏は「いやー、俺ギター弾かせてもらえなかったんだ」とつぶやいた。
*上述のバックバンド、前任は《はっぴいえんど》だった。クオリティの高さを目指す《はっぴいえんど》と岡林信康のリズム感にズレがあり、その対策としてギターの鈴木茂は演奏が始まると岡林氏のギターアンプのボリュームをそっと絞っていた。しかしある日MCの最中にボリュームダウンしたため、岡林氏が気づいてしまったこともあり、《はっぴいえんど》はバックバンドを降りることとなったのだった。
*ジャンルを超えた音楽活動について、
「「好き」なのと『できる』のとは違う。でもやって見たくなってしまう時がある。演歌・カントリー・ハワイアン……。ビートルズなんかいい例ですよ。色んなジャンルの音楽が混ざっている」(柳田ヒロ)
「音楽が好き。やっている事が好き。とはいえやりたい事だけをやるのも問題があるので、需要の中で、どうやって自分を生かしていくかが大切」(東郷昌和)
【使用楽曲】
♪さまよう船(ザ・フローラル)
♪学生街の喫茶店(GARO)※1973年ライブ キーボード・柳田ヒロ
♪私の青空(四角佳子+柳田ヒログループ)※2011年ライブ映像)
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