【放送内容】
*GSやロックに魅了される一方、フォークは好きな曲こそあれ特別な思い入れがなかったパンダさんも、神部和夫氏の誘いで≪シュリークス≫に加入後、本格的にフォークの世界に邁進していく。
*ステージでは高く評価される≪シュリークス≫だが、レコードは何枚出しても売れない。
「3年間みっちりやったんだけど、神部ちゃんどうしよう?、と。そうしたら『山田君、アメリカ行きましょう!』って……」(山田パンダ)
*ちょうどその折、所属していた東芝レコードは「カレッジポップス・アメリカ大陸縦断コンサート」を企画していた。元フォーク・クルセダーズの加藤和彦・北山修両氏をメインに、関西からは谷村新司率いる≪ロック・キャンディーズ≫も参加。総勢50人近くの大編成となるツアーに≪シュリークス≫も加わるのだった。
*アメリカ縦断コンサートでのシュリークスは、日本の民謡や古い大衆歌謡を中心に演奏。日系人の観客の大喝采を浴びる。帰国後、アメリカ縦断中に観たロックコンサートを始めとするパンダさんの洋楽談義がきっかけで、FM東海(後のFM東京)の洋楽番組DJに転身。シュリークスはパンダさん脱退後、神部氏とイルカのデュオとして再出発する。
*ラジオDJを務めた番組のゲストの一人が《かぐや姫》の南高節(当時)。番組収録から程なく、パンダさんの自宅に「南ですが…」電話が入る。それは、《第2次かぐや姫》への参加依頼の電話だった。
「シュリークスで3年みっちりやった。やったけどなかなかブレイクしないで、もうグループの3年間で疲れたから。ごめんな。……そう言って断っちゃったの」(山田パンダ)
1か月後にまた南氏から「僕は諦めていません」と電話が入る。また断る。そして3度目の電話に迷うパンダさんの背中を押したのは傍らにいた奥様だった。こうしてパンダさんは《第2次かぐや姫》のメンバーとなった。
【エピソード】
*大陸縦断コンサートのトロント大学でのステージを終え、ニューヨークへ移動するグレイハウンド(大型バス)の中で、北山修氏がチラシを振り回しながら「すげえコンサートがあるんだ」。NYメッツスタジアムでの、ロックのビッグイベント。出演メンバーはステッペンウルフ、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)、ジャニス・ジョプリン、ポール・サイモン。そしてMCがピーター・ヤーロウ(ピーター・ポール&マリー)。
*6ドル、7ドル、8ドルというチケットの中から一番高い8ドルを選んでいざ会場のゲートをくぐるとそこは客席フリーの空間だった。一瞬気落ちするも、ステージが始まるとジャニスが「ミー・アンド・ボビー・マギー」、CCRが名曲「雨を見たかい」を歌う。
「CCRはあっても、ジャニス・ジョプリンを生で観た人はなかなかいないですよ。27歳で死んじゃったんだもん」(東郷昌和)
「1970年8月に観たんだけど、その年の10月に亡くなっちゃった。僕らが日本人で最後に彼女を観た…」(山田パンダ)
*アメリカのステージで、シュリークスはソーラン節などの民謡を中心に演奏。涙ながらに聴く日系1世のお年寄り…といった話は一切記事にはならず、マスコミは新婚の<トノバン>を追いかける。カメラを向けられる北山修氏の後ろに写り込もうとする青年2人を、取材記者はにべもなく追い払う。その2人が、やがて日本のポピュラー音楽界の寵児となる《かぐや姫》の山田パンダと《アリス》の谷村新司と気づくこともなく……。
*パンダさんの参加の承諾からほどなく《第2次かぐや姫》は高円寺のラーメン屋で結成式を行った。その席で、パンダさんは最低でも3年は辞めないことを誓約させられた。
*《第2次かぐや姫》デビューの少し後に、アメリカツアーを共にした谷村新司が《アリス》でデビュー。同じ3人組のフォークグループ。《かぐや姫》と《アリス》はライバルに、そして盟友になっていく。
【使用楽曲】
♪落陽(山田パンダ・1976年)
♪ミー・アンド・ボビー・マギー(ジャニス・ジョプリン)
〈資料他協力〉山田パンダカンパニー
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