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2020年8月7日 ゲスト・なぎら健壱~前編~


【放送内容】

*中学生になった時、日本にも「エレキブーム」が到来。音楽に目覚めギターに憧れはしたものの、エレキはアンプも入手しないと、ただチャカチャカと小さく鳴るだけ。だったら単体で奏でられるアコースティックギターにするか。しかし楽器を手にしたものの、これでテケテケやってみても今一つ面白くない。程なくピーター・ポール&マリーやブラザーズ・フォアなどのフォークが台頭し始める。こっちの方が俺のギターの音に合う。よし、フォークにするか。かくして1952年生まれのなぎら健壱は、このような流れに乗って音楽の河へ漕ぎだした。

*《なぎらけんいち》という名が世に出たのは1970年。「第2回全国フォークジャンボリー」のステージに立ったのがきっかけだった。実はこの時はまだ、プロミュージシャンではなかった。

「オープニングアクトも誰も(ステージ上に)いないんですよ。全国から客がわんさか集まってくる。その間ステージが空いているわけ」(なぎら健壱)

場内アナウンスが「今ステージは空いていますから、歌いたい人はどうぞ」と呼びかける。希望者は順番リストに名前を書き、1曲だけステージで披露する。なぎらさんもアナウンスに促されステージへ向かおうとするが、ギターを持ってこなかった。ふと見ると、隣で長丁場の野外ライブにそなえテントを張っている少年がいる。その傍らにマーティンのギター。「じゃあ僕もでよう」といいながら気前よくギターを貸してくれた彼の好意に甘え、順番にステージに出て歌った。

「その中から何人かがプロになったんですよ。そのギター貸してくれた奴も、タイロン橋本(元ティン・パン・アレイ、オルケスタ・デル・ソル他)といって」(なぎら健壱)

*その後発売されたフォークジャンボリーのライブレコードに、フォーク界のスターたちと並んで高校生時代のなぎらさんの歌声が収録されている。番組では、このレコードジャケットに使用された若かりしなぎらさんの水着姿も紹介した。


*本格的なレコードデビューは1972年。番組冒頭でお聴きいただいたシングル「悲惨な戦い」よりも前、アルバム「万年床」がリリースされた。アルバムがデビュー盤であることに番組アシスタントのMamiは少々驚いてみせたが、

「当時はそうですよ。歌謡曲はシングル、ポップス系はアルバムですよ」(なぎら健壱)

「ぼくらのジャンルでシングルが先に出るようになったのって、1975年か、もっと後ですよ。かぐや姫の『神田川』だってそうだし」(東郷昌和)

その後アルバムの中から1973年に「悲惨な戦い」、1974年に「葛飾にバッタを見た」がシングルカットされた。フォークソングがお茶の間にも浸透し、やがて『神田川』などで達するピークに向け盛り上がり始めた頃である。




*TVのバラエティー番組などで見せるそのキャラクターなどで「タレント」としての印象が強い《なぎら健壱》だが

「ギターが巧いの!BUZZと一緒にやった時はチェット・アトキンスを完コピしていた。だから、『エレキが最初』とは思わなかったの。カントリーなどから(音楽の道に入った)と……」(東郷昌和)

「アメリカの古いものとかに影響はされていましたけどね。フォークを聴いていると、どんどん前へ戻っていくんですよ。するとオールドタイムとか、(一番古いものに)突き当たってしまう。今度はそこからブルーグラスとかカントリー&ウエスタンとか。逆行していったんです」(なぎら健壱)

*フォークの源流を求めていく中で、フォークを志す者たちが手本にしたのは《カーター・ファミリー》。当時は「カーター・ファミリー・ピッキング」をやらなければ……という時代だった。ある時なぎらさんがカーター・ファミリーのアルバムと思って購入した1枚が「ビル・クリフトン カーター・ファミリーを歌う」だった。しまった…と思いつつせっかく入手した音源、とにかく針を落としてみる。聴いているうちに「凄い人なのではないか……?」と驚きが増していった。「一番影響を受けた海外のアーチストは」と問われると、なぎらさんにとっては《ビル・クリフトン》がその答えになるという。

*アルペジオピッキングを極めようとして来たのは、同様の奏法でアメリカの古謡をモチーフにすることもあった高田渡の影響が大きいという。

「昨日までPPMやブラザーズ・フォアを聴いていたのが、高田渡・高石友也・岡林信康・五つの赤い風船のコンサートを観にいったんですよ。そうしたら『いままで聴いていた者は何だったのだろうか』と。日本語で斬りつけてくるじゃないか、しかも社会抗議も入っていますからね。『間違えていたよな、今まで』と思い、そちらに行っちゃったんですよ」(なぎら健壱)

その航路変更が、やがて《なぎらけんいち》ならではの表現に流れをつないでいくことになる。(8月21日・後編へ)



【エピソード】

*日本語フォークの《なぎらけんいち》とポップス色を持ち味にする《BUZZ》。一見活動の場が違うようだが、

「よく一緒になりましたよね。当時は仲悪そうに見えても、仲良いんですよ。例えば<高田渡とチェリッシュ>とか。<スペースバンドとなぎら>っていうのもあったなぁ(笑)」(なぎら健壱)

「ごった煮みたいなの。ぼくらだって<キャロル&ミカバンド&BUZZ>とか。必ず単独ではなく何組か出るというのが多かったの」(東郷昌和)

*前述の「流れを遡って聴く」のはフォークに限ったことではない。

「ビートルズにハマった時、『ビートルズは※※を聴いていた』というのは聴きましたね。ビートルズを知った後にプレスリーを知ったという……。リトル・リチャードとかも全部そう。ビートルズを越えて、逆行していったんです」(東郷昌和)

「一時期ジョン・レノンがボブ・ディランに感化されていたり、ポール・マッカートニーがリトル・リチャードに憧れたとか。そこから発生しないと只聴いているだけになっちゃうけど、プロになる人間はその辺も触りまくりますからね」(なぎら健壱)




【使用楽曲】

♪悲惨な戦い(なぎらけんいち・1973年)なぎらけんいち作詞作曲

♪風に吹かれて(PPM・1963年)ボブ・ディラン作詞作曲

♪万年床(なぎらけんいち・1972年)なぎらけんいち作詞作曲/ヒロ柳田編曲








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